筑豊の石炭を利用した石炭化学工業のはじまり
福岡県北九州市に官営八幡製鐵所(現・新日本製鐵)が操業。
製鉄や金属精錬などで需要が高まりつつあった石炭から、大量のコークスが生産されるようになる。
薪や木炭に代わる熱エネルギー源として、19世紀から20世紀前半にかけて産業の発展に大きく貢献した石炭ですが、化学工業の発展においても重要な役割を果たしました。石炭を高温で乾留すると、コークスと石炭ガスが得られ、副産物としてコールタールが残ります。このコールタールを使って染料の原料になる「アニリン」を抽出したのが石炭化学の始まりです。以降、合成アンモニア、プラスチック、溶媒のベンゼンやトルエンなど、化学工業の基盤となる製品が石炭から生まれました。
明治46年
三井鉱山が大牟田で本格的な化学事業を開始(現・大牟田工場)
コークスの製造過程で発生する副産物はそれまで廃棄されていたが、効率的に回収する炉の稼動で、
様々な化学製品の製造を開始。
三井の石炭化学は、明治45年(1912)に完成した大牟田のコッパース式コークス炉から始まります。同時にコールタール蒸留工場、ガス工場、硫安工場も操業を開始し、このうち硫安工場ではコークス炉ガス中に含まれるアンモニアを回収、硫酸と反応させて硫安を生産します。これが今日の化学事業につながる第一歩でした。さらに、合成染料アリザリンの国産化に成功し、本格的に化学事業を展開。その象徴が「染料の帝王」と呼ばれるインジゴの合成成功です。石炭の利益に支えられていた三井鉱山の事業を大きく変えました。
日本の化学肥料需要が合成硫安に移行していくのに対応して、合成アンモニアや硫安事業に進出、合成メタノールも生産を開始します。合成染料事業と合わせて大牟田工場は一大石炭化学コンビナートを形成するに至りました。
戦時下では、合成染料や硝酸、医薬品などの生産が増加。合成ゴムも企業化し、人造石油事業にも乗り出します。戦後は食料危機への対応から化学肥料の需要が高まり、北海道に工場を建設して尿素の大量生産を行います。
その後、天然ガス化学や石油化学へと基軸がシフトしていくのです。
大正3年
大牟田でナフタリン、アントラセン、アスピリン工場操業開始
大正4年
日本初の合成染料アリザリンの生産開始で、大牟田での石炭化学工業が発展
当時、天然染料は高価なものであり、合成染料もドイツなどからの輸入に頼っていた。そこで三井の技術を駆使し、
日本で始めてコークスの副産物から合成染料アリザリンを生産することに成功。
昭和3年
三井鉱山化学事業が合成アンモニアや硫安事業へ本格的に進出
三井鉱山が鈴木商店彦島製錬所(現・下関三井化学)の委託運営を開始。
鈴木商店は、1924年(大正13年)に、彦島で日本初のクロード法アンモニア合成に成功している。
三井鉱山が石炭化学事業として合成アンモニアに進出したのは、昭和3年(1928)。総合商社であった鈴木商店の事業を引き取ったことから始まります。
鈴木商店は大正10年(1921)、クロード法アンモニア合成技術の特許を購入し、大正13年(1924)山口県彦島に工場を建設しました。しかし第一次世界大戦の終結とともに、経営環境が悪化し倒産。三井鉱山は、買い取りを要請され、合成アンモニア・硫安事業への参入に向けた事前調査を経て、昭和4年(1929)に買収。彦島工場(現・下関三井化学)が加わりました。
昭和4年
東セロ(現・三井化学東セロ)がセロハンの生産販売開始
昭和7年
合成染料インジゴの生産開始(大牟田)
研究を始めてから苦節16年、インジゴの生産を開始した。
この成功は、三井鉱山の合成染料事業の拡充だけでなく、合成アンモニア・化学肥料事業を拡大させた。
インジゴ(藍)は世界で最も古い染料の一つです。用途が広いため、あらゆる染料の王者として古来から珍重されてきました。現在はデニムの染料として用いられ、日本では古くから「藍」の名で親しまれてきました。天然のインジゴの原産国はインドで、その名もインドに由来しています。天然インジゴのほとんどは熱帯植物のコマツナギ属から得られますが、現在ではほぼすべてのインジゴが化学合成で作られています。
赤色の合成染料アリザリンの工業化に成功していた三井鉱山にとって、インジゴの研究開発に着目したのは必然でした。
しかし、インジゴの合成には、かなりの研究期間が必要でした。大正2年(1913)から、文献を頼りに自社だけで研究を進めていきました。
「石炭による利益がむざむざ浪費させられる」など批判の声もありましたが、三井の幹部、團琢磨の決意は明確でした。「染料はネクストジェネレーションのものと思っているのだ。だいぶできたようだけれどもなかなか儲かるまでには間がある」。反対論を抑えた末、インジゴは完成。昭和7年(1932)から生産が開始されました。
インジゴの生産成功は化学事業への評価を一変させ、生産量も飛躍的に伸びていきました。1934年には695tのインジゴを生産し、翌年には中国への輸出を開始、1937年には980tを生産します。
しかし、戦時体制への移行とともに低迷し、1943年の57tを最後に戦前の生産は停止してしまいます。戦後、被災した工場は直ちに復旧されましたが、衣料の多様化などから需要が伸びず、1950〜1960年代は年産300tから400tに止まります。
三井の化学事業を象徴する製品であったインジゴの生産拡大は、70年代のジーンズブームを待たなければなりませんでした。
1976年から本格的に始まったジーンズブームにより、インジゴの需要が増大します。時代の流れに対応するべく生産設備を増強した結果、年産800tに達し、1981年までには最高1,100t台に増産されました。その後も新しいアルカリ濃縮装置の導入や、スプレードライヤーの設置によって、年産1,450tに拡大します。
しかし、三井の製造方法はドイツに比べて原料費が高いうえ、生産効率が悪く、コスト面でも対抗できませんでした。また、中国でも安価なインジゴを生産する会社が現れて、三井は次第に競争力を失っていきます。そして、平成9年(1997)に生産を停止、平成10年(1998)にインジゴ工場を閉鎖しました。65年におよぶインジゴ生産の歴史はこうして幕を閉じたのです。
昭和8年
東洋高圧工業設立
三井鉱山化学事業の合成アンモニア・化学肥料などの事業をさらに拡大するため、
東洋高圧工業を設立、集約一元化した。
インジゴの生産開始前後から硫安の需要が大幅に伸びていたため、昭和8年(1933)、国の産業奨励を受けて東洋高圧工業を設立します。硫安増産のために、原料を効率の良いコークスに転換し、大規模なアンモニアプラントを大牟田のコークス炉に隣接して建設しました。この新工場の設立にあたり、三井鉱山は「わが社のごとき優秀なる製法により安価なる製造原価を保持し得るにおいては、国内供給の余力をもって有利に海外輸出に進出すること決して難事にあらざるべきを信ず」という自信を持った決断でした。
時代はまさに化学肥料の需要が合成硫安中心へと移行し、国産化の条件が整いつつある最中。東洋高圧の設立や、合成アンモニア・硫安事業を担うために設立されていた三池窒素、合成工業の合併などが、石炭化学の総合化、大型化につながっていきました。大牟田の石炭化学コンビナートも隆盛を極めますが、戦時体制のもと、昭和16年(1941)に三井化学工業が発足しました。
昭和13年
大牟田工場でフェノールの生産開始
昭和14年
東洋高圧工業が北海道に進出。北海道工業所(現・北海道三井化学)起工式
昭和16年
三井化学工業設立
三井鉱山の三池染料工業所、目黒研究所、石油合成工場建設部などを引き継ぎ、
三井財閥の重化学工業部門を担う中核企業として三井化学工業を設立。有機合成化学事業を強化していく。
昭和17年
北海道工場(現・北海道三井化学)が完成
昭和18年
大船工場発足
昭和22年
大船工場で塗料の生産開始
昭和23年
世界初の肥料用尿素大量生産開始(北海道)
東洋高圧工業は尿素の企業化成功で急成長。
戦後、食料確保のために必要とされた肥料用尿素の大量生産としては、世界初だった。
戦後、食料危機打開のために、化学肥料の増産が国策として打ち出されました。そのため硫安の増産が必要でしたが原料の硫酸が不足していたため、アンモニアと炭酸ガスを合成して製造する化学肥料、尿素の量産が望まれました。
そこで東洋高圧は世界初の尿素の大量生産工場を、昭和23年(1948)北海道に完成させます(現・北海道三井化学)。すでに大牟田や彦島では生産を行っていましたが、コストがネックになっていました。その問題も、大量に生産できる設備を整えれば硫安にほぼ匹敵するコストで生産できることが分かったため、北海道工場建設に踏み切りました。さらに大牟田も、製造プロセスなどを改善し、昭和25年(1950)に尿素製造設備を建設。戦災を免れた彦島工場でも苦心の結果、新設備を増強することができ、復興の支えとしての役割を果たします。こうして東洋高圧は、化学肥料の最大手企業として急成長していきました。
日本の高度成長が続いていた昭和40年代に入ると、設備の大型化が進み、昭和44年(1969)には、アンモニア年産1,000t、尿素年産1,750tのプラントが大阪工業所(現・大阪工場)に完成しました。
昭和36年(1961)に東洋エンジニアリング(株)を設立、尿素技術の輸出を加速していきました。
平成22年(2010)3月現在、三井化学の技術を基盤とする尿素ライセンス技術が、国内外で広く採用されています。
昭和25年
名古屋工業所(現・名古屋工場)発足
戦後初の硫安輸出
昭和26年
名古屋工業所(現・名古屋工場)で塩化ビニルの本格生産開始
三井化学工業は、石炭化学からの転換として、アセチレン系有機合成化学工業へ進出。
塩化ビニルの将来性を確信し企業化した。
昭和29年
チーグラー法ポリエチレンとの出合い
三井化学工業の石田社長が欧米視察に訪れた際、チーグラー博士※と出会いチーグラー法ポリエチレン技術のすばらしさに感銘を受ける。これをきっかけに2年後、三井化学工業は独占ライセンス権を正式契約、後の三井石油化学工業でのエチレン生産開始につながっていく。
三井化学グループの石油化学工業の礎となったのが、チーグラー法ポリエチレンの製造技術です。昭和29年(1954)、三井化学工業の石田健社長は、欧米視察の旅の途中、チーグラー博士を訪問し、この研究と出会いました。石田社長はこの時のことを「全く予期せぬ処に予期せぬ事が持上り候…」と手紙に残しています。
チーグラー法ポリエチレンの原料は、必ずしも高純度のエチレンを必要とせず、かつ非常に高分子量の製品が得られるというもの。将来性に確信を持った石田社長はただちに特許実施権購入を決断し、昭和30年(1955)に、オプション契約を結びました。独占契約金は120万ドル(4億3,200万円)〈昭和30年の国家公務員初任給8,700円/月〉。その後すぐに約100人の研究員を動員、総力を結集して、工業化研究に着手します。そして、昭和31年(1956)から月産10tの試験生産の開始に成功。製造機械および運転方法のノウハウ確立と並行して、市場開拓を進めました。
その後、天然ガス化学や石油化学へと基軸がシフトしていくのです。
昭和30年
三井石油化学工業を設立
東洋高圧工業、三井化学工業など三井グループ8社で設立。
三井グループの総力を結集し、石油化学事業へ進出。
石油が化学製品の原料として用いられるようになったのは大正9年(1920)。アメリカのスタンダード・オイル社がプロピレンからイソプロパノールの製造を開始したのが最初といわれています。石油はこれまで化学製品の原料として用いられてきた石炭に比べて液体のため輸送しやすく、コストも低かったため、急速に技術開発が進みました。日本ではナフサ(粗製ガソリン)を原料として使っていますが、中東の産油国やアメリカ・カナダでは、天然ガスや原油採掘時のガスに含まれるエタンを主原料としています。現在では、身の回りにある化学製品のほとんどが石油から作られており、社会の発展に大きく貢献しています。
戦後の化学工業は、石炭化学を軸とした化学肥料やソーダなど無機化学品が中心でした。そんな中で、アメリカで発展しつつあった合成樹脂(プラスチック)や合成繊維、合成ゴムなどの石油化学製品が輸入され始め、石油化学への注目が高まります。また、中東での原油発見によって、石炭から石油へのエネルギー革命が進行。国内への石油供給も拡大しつつありました。折しも日本政府は、貿易や資本自由化などの対外開放経済体制への移行を目指していた時期です。国内産業の育成を重要政策として掲げたことで、電気、エレクトロニクス、自動車産業は目覚ましい発展を遂げようとしていました。産業の育成のために、素材原料の国産化は国の施策として進められることになります。
技術の分野では、欧米で進んでいた高分子化学を中心とする技術革新が、本格的に導入され始めていました。石油供給の確立と合わせて、石油化学製品の国産化の条件が整っていきます。
石油化学の事業化のためには、経済性に優れた低コストの原料が必要です。当初は製油所の廃ガスが検討されましたが、日本の製油所が小規模なため、ガスの産出量が少なく、経済的に成り立たないことが分かりました。そこで、ガソリンを精製する際に余剰だったナフサを有効活用することにしました。余った資源の有効活用は、コークス炉から出る副産物を活用した石炭化学の始まりと同じ発想といえるでしょう。他にも化学製品の製造技術や、プラントの建設、コンビナートといった大規模な設備設計には、これまで石炭化学で積み上げてきたノウハウが生かされました。石油化学工業の誕生は、これまでの化学工業の歴史の上に成り立っているのです。
大規模な設備投資が必要な石油化学工業の国産化にあたっては、三井各社単独での推進には限界があったため、計画を一本化する機運が高まっていきます。また、日本政府も産業構造の高度化と国際競争力の強化のために「石油化学育成政策」を決定し、化学系各社の石油化学計画を調整し始めていました。
そうした中、昭和30年(1955)に、三井化学工業、東洋高圧、三池合成、三井鉱山、三井金属鉱業、興亜石油、東洋レーヨン、三井銀行の8社が共同出資して設立したのが三井石油化学工業です。設立後は、岩国旧陸軍燃料廠の31万9,000m2の払い下げを受け、用地を確保。特に海外の技術導入を進めるなど本格的な準備を進めます。そして昭和33年(1958)4月には日本初の総合石油化学コンビナートが完成し、生産が始まりました。会社設立にあたり、三井化学工業から三井石油化学工業へ移った石田健社長は、次のような抱負を語っています。「政府ならびに金融界、関連業界の御指導を得て新企業確立の大任を果たし、もって日本経済の発展に貢献したい」。三井石油化学工業は、日本の石油化学の未来を切り開いていく自負とともに、三井系各社の総力を結集し設立されたのです。
昭和31年
名古屋工場でフェノールの生産を開始
岩国工場(現・岩国大竹工場)起工式
昭和32年
千葉工業所(現・茂原分工場)発足
東洋高圧工業が、千葉県房総半島の膨大な天然ガスを原料とした化学品事業にも進出。
石油化学の安価な原料としてガスを利用したもの。
戦後復興期にさしかかり、化学肥料のコスト引き下げのために、安価な原料ガス源への転換、肥料形態の変更、設備の大型化などに取り組みます。
世界的にも、石炭・コークスガス化法から、原油・重油ガス化法または天然ガス化法への転換が進んでいる時代です。東洋高圧もその趨勢にならって天然ガス化を進めるべく、千葉県の茂原に新工場の建設を計画(現・茂原分工場)。ガス田開発とともに生産設備の建設を始め、昭和33年(1958)にアンモニア・尿素の生産を開始しました。
茂原でメタノールの生産開始
昭和33年
日本初の石油化学コンビナートが岩国で完成
三井石油化学工業の岩国第1期計画として、年産2万tの日本初のエチレンプラントが操業を開始。
石油化学製品の国産化の時代のはじまりである。岩国では、その後第2~3期計画の建設を完成させ、多くの誘導品を自前で生産した。
日本の石油化学製品の需要はますます高まっていきます。昭和34年(1959)、7月には池田内閣が発足し12月には「所得倍増計画」を決定、高度成長に拍車がかかりました。
政府は「国際価格水準での生産」を前提に、石油化学工業の設備大型化を推進します。
三井石油化学工業も、岩国工場(現・岩国大竹工場)の規模拡大をねらい第二期計画をスタート。従来の岩国地区だけでは敷地に限界があったため、エチレンと新規プロジェクトの各プラントは、小瀬川を挟んで隣接した大竹地区に設置することになりました。昭和36年(1961)から工事が開始され、昭和37〜38年(1962〜1963)にかけて完成。総面積は約92万4,000m2におよびました。続けて、急増する需要に合わせて、第三期計画となる工場合理化計画も始まります。
こうして、石油化学工業は国産化の時代から大型化の時代へと歩みを進めていきました。
研究が進められていたポリエチレンは、昭和31年(1956)三井化学工業から三井石油化学工業に技術供与されます。その後昭和33年(1958)、ついに「ハイゼックス」という名で販売が開始されました。「ハイゼックス」の事業体制は、三井石油化学工業が生産を行い、三井化学工業が販売するというもの。これは、三井化学工業がポリエチレンの生産開始前から、市場調査や生産販売の総合計画立案を行っており、グループ内で生産と販売を分業することで事業展開を有利にするためです。販売開始当初こそ販売数量は月産150〜200tの低水準でしたが、昭和33年の「フラフープ・ブーム」によって火が付き、同年11月にはフル稼働(月産1,259t)に達しました。当時は「ハイゼックス」の他にも、三井グループそれぞれが各社と協力し合って事業を展開していました。
昭和35年
米デュポンと三井ポリケミカルを設立(現・三井デユポンポリケミカル)
東洋高圧工業ニューヨーク駐在事務所開設
昭和36年
名古屋工場でビスフェノールAの生産を開始
東洋高圧工業ヨーロッパ(ドイツのデュツセルドルフ)駐在事務所開設
昭和37年
三井石油化学工業ヨーロッパ(ドイツのデュツセルドルフ)駐在事務所開設
三井石油化学工業ニューヨーク駐在事務所開設
名古屋工場でポリプロピレングリコール製造設備が稼働
岩国大竹工場で三井ポリケミカルの低密度ポリエチレン製造設備が稼働
わが国最初のポリプロピレン製造設備が岩国大竹工場で運転開始
日本で初めてポリプロピレンを製造
三井化学工業がチーグラー触媒によるエチレン以外のポリオレフィン類への応用として、大竹工業所で日本で初めて石油からポリプロピレンを製造。近隣の三井石油化学工業から、原料のプロピレンをタンクローリーで受け入れた。
三井化学工業と三池合成が合併
事業の合理化などで企業基盤強化を図るため、両社が合併。三井化学工業が存続会社となった。
昭和38年
岩国大竹工場で三井石油化学工業 メチルイソブチルケトン(MIBK)製造設備完成
三井化学工業 川崎工業所発足。川崎でPPG生産開始
昭和39年
大阪工業所(現・大阪工場)発足
東洋高圧工業が大阪地区に石油化学工場を建設。翌年、東洋高圧工業と三井化学工業などが出資して石油化学コンビナートの建設計画に着手、大阪石油化学を設立した。その後1970年(昭和45年)、大阪石油化学の年産30万tのエチレン製造設備が完成。
三井グループとして、関東で千葉工場の計画が進む中、関西では東洋高圧が大阪湾臨海工業地帯の堺地区にて、石油化学計画を検討していました。計画は昭和38年(1963)より本格化され、関西地区での石油化学製品のシェアを獲得すべく、通称「プレ堺計画」として固まっていきます。そして、昭和39年(1964)には大阪工業所(現・大阪工場)が発足しました。
この時期、各社が関西地区での新計画を検討しています。東洋高圧のプレ堺計画とは別に、東洋高圧、三井化学工業、ゼネラル石油などが連携し、エチレン年産10万t設備を中心に誘導品を企業化する計画を政府に提出します。さらにこの他にも、関西地区の企業を中心に設立された関西石油化学の計画もあり、混戦となっていました。そこで政府は、合理化や規模の拡大の観点から、それらの計画を統合一本化するよう指示。関係各社との調整の末、昭和40年(1965)に東洋高圧と三井化学工業、関西石油化学が出資した大阪石油化学が設立されたのです。
昭和40年
三井化学工業、東洋高圧工業、関西石油化学が大阪石油化学を設立
三井石油化学工業と日本石油化学 浮島石油化学を設立
岩国大竹工場に総合研究所設立
昭和42年
千葉工場(現・市原工場)発足
三井石油化学工業が、三井グループの千葉地区への石油化学コンビナート建設計画に参加。年産12万tのエチレンプラントを建設。その後1970年(昭和45年)、日本石油化学(現・JX日鉱日石エネルギー)との合弁で川崎市浮島地区に年産30万tのエチレンプラントを完成させた。
昭和39〜40年(1964〜1965)の不況下にあっても、依然として日本の石油化学工業の設備投資意欲は旺盛でした。三井石油化学工業も、岩国大竹工場のみではこれ以上プラントを建設する余地がないことから、千葉への進出を計画します。最大の消費地、東京に近い千葉は、市場性からいって重要な意義をもっていました。
そして、京葉工業地帯造成整備計画の一環として、千葉県五井・姉崎・袖ケ浦地区で建設がスタート。三井石油化学工業も参加することになりました。埋立てや造成、土建工事、プラント建設を経て、昭和42年(1967)に千葉工場が完成します(現・市原工場)。
千葉工場のレイアウトは整然とした機能的なもので、原料や製品の流れや将来の増設も考慮されました。プラントのほとんどに岩国大竹工場の経験とノウハウが生かされ、エチレンプラントは当時の日本で最大規模の年産12万t。最初からポリオレフィンの量産工場として建設されたことが千葉工場の大きな特色です。また公害防止についても、排水系統をオイリーとノンオイリーの2系統とし総合オイルセパレーターでチェックを行うなど、環境面の配慮がされていました。
昭和43年
東洋高圧工業と三井化学工業が合併、三井東圧化学が発足
企業規模拡大を目指し、両社が合併。総合化学企業としてスタート。
大阪石油化学の計画(泉北石油化学計画)において主導的な役割を果たすことになっていた三井化学工業の業績が、昭和40年(1965)の不況のあおりを受けて悪化します。設備の大型化が進む中で、三井グループとして石油化学事業を展開していくにあたり、三井化学工業の再建は不可欠でした。また、政府は新たにエチレン年産30万t基準を決定したため、大阪石油化学での10万t計画を根本的に見直すことになりました。新たな基準に見合う誘導品を企業化するには膨大な投資が必要になり、ますます企業規模の拡大が求められます。こうした情勢に対して昭和42年(1967)、東洋高圧と三井化学工業の合併が合意されます。こうして昭和43年(1968)10月1日、三井東圧化学が誕生します。従来アンモニアを中心とした技術を培ってきた化学会社が石油化学事業も取り込み、日本有数の総合化学企業として新たにスタートしたのです。
昭和33年(1958)、岩国で年産2万tから始まった三井グループのエチレン生産能力は、15年後の昭和48年(1973)までに、岩国・千葉(浮島石化含む)・大阪を合わせて年産73万tと飛躍的に拡大しました。
三井化学工業と東洋高圧工業 三井泉北石油化学を設立
昭和46年
三井東圧化学 三井製薬工業を設立
三井東圧化学 東洋燐酸設立
昭和47年
下関にわが国最大の燐酸工場営業運転開始
昭和48年
国家プロジェクトであるイランでの石油化学事業に参加
三井東圧化学、三井石油化学工業他数社でイラン・ジャパン石油化学(IJPC)を設立、コンビナートを建設することに。しかしイランの政情悪化などから、1991年(平成3年)に事業を清算。
三井東圧化学大船総合研究所竣工
昭和49年
三井東圧化学、三井泉北石油化学を吸収合併。石油化学事業を統合
三井東圧化学、日本曹達、三井物産の3社 ウレタン原料の販売部門統合で三井日曹ウレタン設立
昭和50年
三井石油化学工業 三井石油化学エポキシ設立
昭和51年
三井東圧化学 三井物産と難燃剤、特殊樹脂原料、農薬中間体などの販売で三井東圧ファイン(現・三井化学ファイン)設立
昭和52年
三井東圧化学 日本石油化学とポリプロピレン生産で泉北ポリマー設立
昭和55年
三井グループによる石油化学事業であるイランのIJPC事業の工事再開
昭和58年
三井石油化学工業、三井東圧化学、日本石油化学、三井ポリケミカルの4社 三井日石ポリマーを設立
昭和59年
三井石油化学工業 チバ・ガイギーと日本アルキルフェノールを設立
昭和61年
三井石油化学工業 新技術研究開発センター(現・VISION HUB™ SODEGAURA)起工式
三井東圧化学 コークス事業から撤退
昭和62年
三井化学シンガポール(現・Mitsui Chemicals Asia Pacific)を設立
昭和63年
三井化学アメリカを設立
大牟田にわが国初のオキシクロリネーション法塩素製造設備完成
三井東圧化学、三井石油化学、日本石油化学および 三井日石ポリマーの4社が浮島ポリプロを設立。
平成2年
三井化学ヨーロッパを設立
三井石油化学工業 出光とフェノール合弁会社千葉フェノール(株)設立
三井東圧化学 茂原にライフサイエンス研究所を設立
平成6年
上海三井複合塑料有限公司 設立
平成7年
樹脂のコンパウンド会社であるサンアロイ社が営業運転開始(袖ケ浦)
平成8年
三井石油化学工業と住友化学工業 メタロセン触媒法直鎖状低密度ポリエチレン生産で日本エボリュー 設立
三井石油化学工業と三井東圧化学 合併の覚書に調印
三井東圧化学と日本石油化学、泉北ポリマーと浮島ポリプロの株式交換。
三井東圧化学が泉北ポリマー、日本石油化学が浮島ポリプロを主導
平成9年
三井ビスフェノールシンガポール(現・Mitsui Phenols Singapore)設立
三井東圧化学と住友化学 日本ポリスチレンが営業開始
三井石油化学工業と三井東圧化学が合併。三井化学が誕生
「世界の市場で存在感のある総合化学会社」を目指して、三井化学がスタートした。
平成11年
1月三井化学上海(現・三井化学(中国)管理有限公司)設立
4月エムシー・ヒューマンリソース発足(サン人材センターとアミカを統合)
4月三井化学プラテック発足(三井東圧プラテックと三石アグリを統合)
4月Mitsui Phenol Singapore(現・Mitsui Phenols Singapore)設立
7月三井BASF染料営業開始
7月住友化学と日本エイアンドエル 設立
10月三井化学分析センター発足(サン分析センター、エム・シー・リサーチセンター他分析事業を統合)
10月三井化学エンジニアリング発足(三井東圧機工と三井石化エンジニアリングを統合)
平成12年
1月大阪石油化学を100%子会社化
4月北海道三井化学発足
10月三井化学産資発足(三井石化産資と三井東圧建設資材を統合)
10月下関三井化学発足
平成13年
2月Mitsui Elastomers Singapore 設立
4月三井武田ケミカル 設立
7月Mitsui Hygiene Materials (Thailand) 設立
7月亞太三井化学を設立
平成14年
4月三井住友ポリオレフィン営業開始
5月Thai PET Resin 設立
6月コスモサイエンテックス(現・Mitsui Chemicals Scientex Sdn. Bhd.)設立
平成15年
1月Advanced Composites 発足(米国のPPコンパウンド会社ATC とCCT(C&C Tech)が統合)
3月三井化学 第1回触媒科学国際シンポジウム(MICS)開催
4月ジャパンコンポジット営業開始(日本触媒と不飽和ポリエステル樹脂事業を統合)
10月三井化学アクアポリマー 設立
10月三井住友ポリオレフィン 合併解消
平成16年
4月三井化学ファイン発足(三井化学ファインとサンテクノケミカルが統合)
10月中国におけるPP自動車材新会社 三井化学複合塑料(中山)有限公司設立
平成17年
4月三井化学ファブロ発足(三井化学プラテックとハイシート工業が統合)
4月プライムポリマー営業開始(出光興産とポリオレフィン事業統合)
7月三井化学複合塑料(中山)有限公司 営業運転開始(PPコンパウンド)
7月三井化学クロップライフ発足(三井東圧農薬、三中化学、三東化学工業が統合)
平成18年
1月Sun Alloy Europe(ドイツにおけるエラストマーコンパウンド新会社)設立
1月Mitsui Phenols Singapore 発足(Mitsui Phenol SingaporeとMitsui Bisphenol Singaporeが統合)
4月山本化成を100%子会社化
4月三井化学ポリウレタン発足(三井武田ケミカルを100%子会社化)
8月上海中石化三井化工有限公司 設立 BPAプラント着工
10月三井化学シンガポール技術センター 設置
11月インド駐在事務所開設
平成19年
3月第一三共の農薬子会社「三共アグロ」を100%子会社化
平成20年
1月国連「グローバル・コンパクト」へ参加
4月三井化学India設立
4月出光興産、クウェート国際石油、ペトロベトナムと「ニソン精製有限責任会社(仮称)」に参加
6月SDC Technologiesを買収
8月シンガポール政府より当社がDPIP賞受賞
平成21年
4月東セロを100%子会社化
4月三井化学ポリウレタンを吸収合併
4月三井化学アグロ発足(三共アグロと三井化学の農業化学品事業を統合)
7月Mitsui Prime Advanced Composites India PPコンパウンドの営業運転開始
平成22年
6月三井化学Brasil 設立
10月三井化学東セロ発足(東セロと三井化学ファブロのフィルム・シート事業統合)
10月出光興産との千葉地区エチレンプラント統合運営開始
平成23年
4月Acomon AG 買収
4月MCTI Scientex Solar SDN BHD 設立(マレーシアでの太陽電池封止シート生産)
4月MCTペットレジン 営業開始
5月三井化学シンガポールR&Dセンター 設立
5月佛山三井化学聚氨酯有限公司 営業運転開始
12月テクニカルサポート拠点を中国(上海)とシンガポールに開設
平成24年
4月Siam Tohcello 設立
5月Produmaster Advanced Composites Indústria e Comércio de Compostos Plásticos Ltda. 設立
5月上海中石化三井弾性体有限公司 設立
10月三井化学功能複合塑料(上海)有限公司 設立
10月Prime Evolue Singapore Pte. Ltd. 設立
平成25年
2月韓国メガネレンズ材料メーカーKOC Solutionの株式取得
4月Lotte Mitsui Chemicals, Inc. ポリプロピレン触媒プラントの営業運転開始
6月Dentca, Inc. 株式取得
7月Heraeus Holding GmbH’s 歯科材料事業買収
平成26年
2月世界初のXDI大型プラントを大牟田工場に新設
5月米国 Corning社の調光レンズ材料「SunSensors®」事業譲受
9月たはらソーラー・ウインド® 共同事業営業運転開始
10月三井化学株式会社 韓国支社 設立
11月ヘルスケア・ブランド Whole You® 誕生
12月上海中石化三井化工有限公司のフェノール及びアセトンプラント本格稼動
12月上海中石化三井弾性体有限公司 本格稼動
平成27年
7月三井化学SKCポリウレタン営業開始(ウレタン韓国)
平成28年
3月韓国法人設立(三井化学韓国)
平成29年
4月タイ法人設立(三井化学タイランド)
平成30年
1月グローバル開発支援企業 アーク社の株式を取得
令和2年
6月欧州初のポリプロピレン コンパウンド自社生産拠点、本格稼働 (三井・プライム・アドバンスト・コンポジッツ ヨーロッパ(ACE)
令和3年
12月三井化学と韓国SKC社とのポリウレタン原料事業の合弁解消
令和4年
10月三井化学 創立25周年