なぜ今、SBT「企業ネットゼロ基準」の改定が必要なのか?

企業がSBT(Science Based Targets)を設定する際は、「SBTi企業短期基準」、「SBTi企業ネットゼロ基準」などに準拠する必要があります。その中で、「企業ネットゼロ基準」は、企業が遅くとも2050年までに温室効果ガス(GHG)排出量を実質ゼロにする(=ネットゼロ)目標を設定する際のガイダンス、要件、推奨事項などを定めたもので、2021年に初版が策定されました。
SBTi(Science Based Targets initiative)は、2021年に発表した「企業ネットゼロ基準」の初めての包括的な改定となる「企業ネットゼロ基準V2.0」の草案の初版を2025年3月、第2版を同年11月に発表しました。同基準の改定を進めている主な理由としては、以下の点が挙げられます。
<企業ネットゼロ基準 改定の主な理由>
・SBTiの定期的な更新サイクル:
SBTiのガイドラインである標準作業手順書(SOP)では、2~5年ごとに更新するという約束があります。企業ネットゼロ基準の改定も、この定期的な更新サイクルの一部です。
・国際的なベストプラクティスとの整合:
2022年のCOP27では、国連のグテーレス事務総長がグリーンウォッシュを防ぐための報告書「インテグリティの重要性」を発表しました。これには「企業や自治体がネットゼロを訴求するために何をすべきか」というベストプラクティスが示されており、SBTiもこれに沿ってブラッシュアップすることが求められていました。
・最新の気候科学的知見との整合:
2023年にはIPCCが第6次統合報告書を発表、また、IEAによるネットゼロシナリオも更新されています。これら最新の科学的知見に、SBTiの基準を整合させる必要があります。
・企業の経験と実効性の向上(特にScope3):
2015年にSBTiが発足して以来、企業はさまざまな経験と知見を蓄積してきましたが、特にScope3については、現状のままでは削減を進めることが難しい側面も見えてきました。こうした状況を受け、より実効性が高く効率的な削減の仕組みづくりが求められています。
・他のイニシアチブとの並行した議論:
GHGプロトコルやRE100といった他の関連イニシアチブでも並行して、企業の気候変動対策の実効性を高めるための議論が進んでいます。SBTiもこれらの動きに合わせて改定を進める必要があります。
企業ネットゼロ基準V2.0の主な変更点と企業への影響
SBTiが2025年3月と同年11月に公開した「企業ネットゼロ基準V2.0」の改定案(初版、第2版)は、企業のネットゼロ達成に向けた実効性と科学的整合性の両立を目指す、重要な改定案を含んでいます。以下に主な変更点を解説します。
<企業ネットゼロ基準改定案のポイント>
出典: WWFジャパン提供
【参考】
Scope1:事業者自らによる「直接排出」
Scope2:他社から供給された電気、熱・蒸気の使用に伴う「間接排出」
Scope3:Scope1、Scope2以外の間接排出(事業者の活動に関連する他社の排出)
※Scope1・2・3については、「Scope(スコープ)1・2・3とは?サプライチェーン排出量についても解説」にて詳しく解説しています。
Scope1・2の目標分離:Scope1(直接排出)への対策が必須に
・V1.0の基準:
Scope1と比べ、Scope2は削減するための方法が現時点でも比較的実行しやすい状態にあります。そこで企業は、まずScope2での削減を進め、目標達成を目指す戦略を取っています。例えば、再生可能エネルギー(以下、再エネ)の調達などがその削減策に該当します。
・V2.0改定案(初版):
改定案(初版)では、Scope1とScope2の目標を個別に設定することが提案されています。これまでは、例えばScope1とScope2については、まとめて目標を設定することが可能でしたが、改定案(初版)ではそれを分離して、それぞれに目標を定めるようにしています。
・V2.0改定案(第2版):
工場での燃料燃焼など自社が直接排出するGHGを指すScope1については、改定案(初版)と同様にScope2と切り離した目標の設定が求められますが、目標設定の方法については以下の3つのアプローチが示され、柔軟性が増しました。
- 排出量ベースの削減目標を設定する方法(従来型の方法)
- 低炭素な事業活動の比率を徐々に高める方法
- 資産脱炭素化計画
・企業への影響:
本改定により、今後、Scope1の削減に悩まれる企業が増えるかもしれません。Scope1の削減は、ボイラーの電化など大規模な設備投資を伴うこともあり、Scope2の削減よりも時間や費用がかかるケースがあります。また、現時点ではすべての直接排出源に対してすぐに適用できる万能な技術が存在しないという課題も残っています。
Scope2:求められる要件の厳格化
・V1.0の基準:
Scope2には、「マーケット基準」と「ロケーション基準」の2つの算定方法があります。これまでは、企業が再エネ証書やPPA(電力購入契約)などを通じて再エネを調達する努力を反映する「マーケット基準」での目標設定が一般的でした。
・V2.0改定案(初版):
改定案(初版)では、Scope2の目標設定に「ロケーション基準」の追加を義務化する可能性が示されていました。ロケーション基準とは、企業が電気を使用する地域のグリッド(送電系統:電線を伝って電力会社から家などに送られる電力網)全体の平均排出係数に基づいて排出量を算定する方法です。この基準では、たとえ企業が再エネを契約・購入したとしても、その地域のグリッド全体のネットゼロ化が進まなければ、企業の排出量は減らないものとみなされます。
・V2.0改定案(第2版):
改定案(初版)では、前述のようにロケーション基準の目標設定が必須で求められていましたが、改定案(第2版)では必須である低炭素電力の調達目標の設定に加え、ロケーション基準またはマーケット基準での排出削減目標を任意に追加できるという建付けになりました。また、電力の地理的マッチング(物理的供給可能性)(※1)を求めるとともに、時間的マッチング(※2)も段階的に求めていくこととされています。
※1 地理的マッチング:
再エネ由来電力の環境価値の発行場所と、それを使用する企業側の電力使用の場所が同じエリアであること
※2 時間的マッチング:
再エネ由来の電力供給と消費を時間的にあわせること
・企業への影響:
自社のコントロールが効かないロケーション基準によるScope2目標設定の義務化が第2版においてなくなったのは、企業にとっては胸をなでおろすものだったと思われます。しかし、第2版では低炭素電力100%を2040年までに達成することが求められるため、自社のScope2脱炭素ロードマップの再検討が求められる企業もいるかと思います。また、電力の地理的マッチングや時間的マッチングが求められるようになると、Scope2目標達成に使える低炭素電力の調達がより難しくなる可能性があります。後から慌てないように早めに対策を検討しておく必要がありそうです。
Scope3:サプライチェーン排出における柔軟性の向上
・V1.0の基準:
全15カテゴリを広範にカバーする必要がありました。
・V2.0改定案(初版):
Scope3についても、対象とするバウンダリ(カテゴリと算定方法)を、自社にとって排出インパクトが大きいカテゴリに絞って目標を設定できるよう、柔軟性が加えられる方向です。
・V2.0改定案(第2版):
よりインパクトの大きい優先的な排出源やコモディティに集中した削減目標の設定が可能になりました。またカテゴリごとにとれる目標設定の選択肢も明確化され、排出量の削減だけではない方法も示されています。
・企業への影響:
目標設定の範囲にメリハリがついたことや、対策の選択肢が増えたことで、企業は限られたリソースをより柔軟に排出量削減効果の高い領域へ集中させることが可能になります。その一方で、引き続きサプライヤーとの連携によるデータ収集・追跡(トレーサビリティ)は重要です。情報収集の難しさや、関係者との連携の複雑さは、Scope3特有のハードルとして残っています。また、選択肢が増えた半面、より内容が複雑になったという側面もあります。
残余排出への対応方針の明確化
さらに、これまで曖昧だった残余排出への対応についても、一定の定義づけがなされました。削減努力を尽くしても残る排出に対しては、自然由来あるいは技術的な手段による除去・中和の活用を認める方向で整理が進められています。もちろんその前提として、あらゆる削減努力がなされていることが条件となります。
また、これまで企業の自主的な取り組みという扱いであったバリューチェーンを超えた緩和(自社の削減は進めたうえで、追加的に気候変動対策や自然保全活動に貢献をするもの)については、「継続的排出に対する責任の認知」という新たな概念が提案され、自社の削減目標を超えた追加的な貢献に対してSBTiが認定をするということも提案されています。
こうした枠組みを活用すれば、企業にとっては自社のポジティブな取り組みをグリーンウォッシュのリスクを心配せずに顧客や取引先、投資家などのステークホルダーに訴求しやすくなるという可能性を持つものです。
「整合性」と「実効性」の緊張感が、企業の成長を加速させる

SBTiの「企業ネットゼロ基準V2.0」では、気候科学との整合性を保つための要件が強化される一方で、企業の実行可能性にも配慮した設計がなされています。しかし、この変更はすべての企業が一様に受け止められるわけではなく、現場ではさまざまな葛藤の声も聞かれます。科学的整合性とビジネスとしての実現可能性の両立は、容易なものではありませんが、その間にある張りつめた緊張感こそが、企業の成長や社会の変化を引き出す原動力になり得ます。
今回の「企業ネットゼロ基準」の改定では、求められる水準が引き上げられる可能性が高いのですが、企業の構想力と実行力を信頼しているからこそ、突きつけられた新たな問いでもあります。私たちWWFとしても、要件や基準の厳格化を一方的に課すのではなく、それが実際に経営アクションにつながるよう、伴走者として支援し続けていきたいと考えています。企業が今、向き合っているのは制度の細かな変更ではなく、自社の未来をどう構築するかという本質的な問いにほかなりません。
要件や基準が厳格化すれば、当然ながらそれを支援する外部パートナーの重要性も増します。SBTを取得すること自体が目的ではなく、それを出発点にいかに自社の実状に即したネットゼロ戦略を描くか──今後はその構想力と実行力こそが、企業の本質的な競争力を高めていく時代に入ったのかもしれません。
SBTは、企業がパリ協定の1.5℃目標達成への道筋を示す“コンパス”のような存在です。そこで示されるのは、現時点で科学が提示し得る最適なルートですが、決して唯一の正解ではありません。だからこそ私たちは、目標達成の厳しさに圧倒されるのではなく、「どうすればそれに近づけるか」という視点で、今後も企業の実状に寄り添う支援を模索し続けていきたいと考えています。