1889(明治22)年、三池炭鉱の払い下げを受けた三井財閥は、当時製鉄や金属精錬などで需要が高まりつつあった石炭から造るコークスの生産を本格化させた。
そして1912(明治45)年、コッパース式コークス炉(副産物回収型コークス炉)稼動と同時に、隣接する副産物工場において最初の化学製品「硫安(硫酸アンモニウム)」の生産を開始した。“大牟田工場の産声”である。
このコッパース式コークス炉は、コークスの製造過程で発生するガスとコールタールを効率的に回収するもので、三井鉱山はそれらを利用し様々な化学製品を造り始めた。
この頃ドイツでは、コールタールから得られるアントラセンから合成染料アリザリン(赤色染料)を造り、大きな利益を得ていた。そこで創業当時の三井鉱山首脳陣であった團琢磨・牧田環らは合成染料の企業化に意欲を燃やし、研究者をスカウトして合成染料の研究を本格的に開始した。そして幾多の困難を経て、1915(大正4)年にアリザリンの工業化に成功した。このアリザリンは、日本で最初の合成染料であり、有機合成化学事業の第一歩となるものであった。
アリザリンの成功に自信をつけた三井鉱山は、その後合成染料の本命ともいえるインジゴ(人造藍)の開発に着手した。
第一次世界大戦後、牧田環らが技術導入のためにドイツを訪れたものの染料工場内への立ち入りすら許されず建物の外観を見るだけにとどまった。
わずかな知見と入手可能な文献だけを基に進めた研究開発は、苦難に満ちたいばらの道となった。
巨額の研究開発投資に三井グループ全体からは「石炭による利益の一部がむざむざ消費させられている」との批判の声があがったが、團琢磨は「合成染料等の化学事業は短期的な損益より長期的な視点からこれらを育成していくことが大事だ」と言って一歩も譲らなかった。
そして16年もの歳月をかけついに工業化に成功し、1932(昭和7)年には、5階建て鉄筋コンクリート製インジゴプラント(V工場)を完成させた。
その後、相次いで高層染料工場(L工場、J工場)を建設し、人々から「摩天楼が出現した」と言われた。