日本の戦後復興の柱は石炭及び鉄鋼の増産であったが、食料危機打開のために化学肥料の増産も国策として打ち出されていた。
硫安の増産工事中に空襲を受けた大牟田工場は、被災を免れた資材を活用しながら懸命に努力して、1945(昭和20)年11月には早くも生産再開にこぎつけた。
その後も原料不足や特殊機器の入手難などの様々な困難に直面したが、労使一体となって可能な限りの増産に傾注した。
しかし硫安増産には原料の硫酸が不足していたため限界があり、アンモニアと炭酸ガスを合成して製造する化学肥料「尿素」の量産が望まれていた。
東洋高圧工業は国の勧奨のもと、1948(昭和23)年に世界初の尿素の大量生産工場を北海道に完成させ国内外から注目を浴びた。
その後さらに機器の材質や構造、製造プロセスなどを改善し、1950(昭和25)年に改良法による尿素製造設備を大牟田(横須)に建設した。
増産と普及に成功した尿素は国内に留まらず、1951(昭和26)年以後、ハワイ、北アメリカ、台湾、中国、韓国などに市場を開拓し、輸出量も急増していった。
その頃、化学工業は1950年代の高度経済成長期に向かって石炭化学から石油化学への転換期を迎えていた。
石炭から人造石油の製造を手がけていた三池合成工業は他に先んじて各種調査を進め、岩国旧陸軍燃料廠跡地で石油化学への進出を計画した。
同時期、三井化学工業は後にノーベル化学賞を受賞したチーグラー博士(独)が開発したポリエチレン製造法の技術導入を検討していた。
1955(昭和30)年7月、三井グループは共同出資により「三井石油化学工業」を設立し、石油化学の企業化に向かって本格的な準備を進めた。
三井化学工業は大牟田の研究部門に月産10tの量産化試験設備を建設し技術陣の総力をあげて技術開発を進め、三井石油化学工業岩国工場に建設予定の月産1,000t設備の工業化ノウハウを確立し、国産初のチーグラー法ポリエチレン工業化の成功に大いに寄与した。