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石炭化学コンビナートの成立

1933年〜1945年

インジゴの成功は、三井鉱山内部の化学事業への評価を一変させ、合成染料事業の拡充のみならず合成アンモニア・化学肥料事業を拡大させた。
この頃硫安の需要が大幅に伸びていたことから、1933(昭和8)年に、国の産業奨励を受けて「東洋高圧工業」を設立した。
東洋高圧工業は、硫安増産のために原料を効率の良いコークスそのものに転換し、大規模なアンモニアプラントを三池染料工業所のコークス炉に隣接して建設した。
またアンモニアと反応させる硫酸を横須の三池製煉所(現在の三井金属グループ)より調達していたことから、硫安プラントは同所に隣接して建設した。

こうして大正から昭和初期にかけて三井鉱山の三池地区に多くの工場が建設されていった。
その中核であり三井鉱山の一部門であった三池染料工業所は、1941(昭和16)年に「三井化学工業」として独立した。
その従業員数は、1926(昭和元)年の約千人から1940(昭和15)年には約1万人に膨れ上がっており、朝夕の通勤時は西鉄の栄町駅から北門、正門まで人が数珠つなぎになった。
1943(昭和18)年に設立した石油化学の礎ともなる「三池石油合成(後の三池合成工業)」も含め、三池地区における「石炭化学コンビナート」(下図参照)は昭和10年代にその姿が完成の域に達した。

現在の福岡県大牟田市と熊本県荒尾市にまたがる地域

〈三池地区における石炭化学コンビナートの生産関連図〉

 −1940(昭和15)年−
fig_石炭化学コンビナートの生産関連図

しかし石炭化学コンビナートが隆盛を極めた矢先に、日本は太平洋戦争に突入した。
大牟田工場は軍需の色を深め、染料・医薬品も軍需品が主力となり、「三池石油合成」では航空機用燃料(人造石油)の製造を行った。
1945(昭和20)年6月以降、大牟田に空襲が相次ぎ、同年8月の爆撃により工場は機能を停止し終戦を迎えることになった。

写真 完成直後の硫安倉庫

完成直後の硫安倉庫/1934(昭和9)年

写真 三井鉱山

三井鉱山 三池染料工業所 全景/1937(昭和12)年

写真 東洋高圧工業 大浦工場 全景

東洋高圧工業 大浦工場 全景/1934(昭和9)年

写真 東洋高圧工業 大浦工場 アンモニアプラント

東洋高圧工業 大浦工場 アンモニアプラント(ガス圧縮機)/1935(昭和10)年

写真 東洋高圧工業 横須工場 硫安プラント

東洋高圧工業 横須工場 硫安プラント/1935(昭和10)年

アンモニアプラント(アンモニア合成管)/1935(昭和10)年

写真 三池石油合成

1943(昭和18)年に設立した三池石油合成

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