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後編:GX-ETS「排出量取引の論点とクレジットへの向き合い方」

GX-ETS(排出量取引制度)をテーマに、東北大学の明日香 壽川教授(東北大学大学院 環境科学研究科 特任教授 名誉教授)にインタビューし、専門家の視点から解説いただいた内容を、前後編の2部構成でまとめています。
※前編:GX-ETS「排出量取引制度の仕組みと第2フェーズの重要ポイント」
GX-ETSの本格始動に伴い、企業には排出量の可視化だけでなく、同制度がもたらす経済的影響への理解が求められています。日本企業がカーボンニュートラルへの移行を進めつつ国際競争力も維持するためには、排出枠の価格設定やカーボンリーケージ(炭素漏出:排出規制が緩やかな国・地域における相対的な排出増大)といった複雑な議論のポイントを正確に把握しなければなりません。
また、昨今ではカーボンクレジットの「質」の問題やグリーンウォッシュと批判されるリスクへの懸念も深まっています。本記事では、前編に続き、GX-ETSを巡る論点やカーボンクレジット制度の現状、そして今後の展望について、明日香教授の考察を交えて詳しく解説していただきました。
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プロフィール 明日香 壽川(あすか じゅせん) |
GX-ETS(排出量取引制度)の削減目標とビジネスとしての側面
前編では主にGX-ETSの仕組みを見てきました。気候変動対策の制度設計の中身は「目標をどこに置くか」で大きく変わります。具体的には、気温上昇を一定の幅に抑えるという目標(例えば、パリ協定の1.5℃目標)を達成するのであれば、その温度目標達成のために科学的に必要な温室効果ガスの累積排出量上限である「炭素予算(カーボンバジェット)」の大きさを考慮した制度設計が必要不可欠です。
世界全体および日本全体の目標のもと、日本での排出量取引制度の導入は、企業は単なる理想論ではなく、具体的な数値としての削減目標にビジネス課題として真正面から向き合う必要性を示しています。
カーボンニュートラルを進めるという意味で、GX-ETSの導入における重要ポイントの1つは「排出量が可視化されること」です。アメリカの経営学者ピーター・ドラッカーの言葉を借りれば、「測定できないものは改善できない(If you can't measure it, you can't improve it.)」です。このような意味で、ETSが企業や工場での排出量のモニタリングを通して、まず排出量の正確な把握を実現し、それによって経済効率的な温室効果ガスの排出量削減に着実に貢献する点はしばしば見落とされがちです。
10〜20年前、温暖化対策は「経済の足かせ」や「我慢」と捉えられてきました。しかし、この10年間で世界および日本の再生可能エネルギーのコストは急激に低下しており、状況は大きく変化しています。省エネのポテンシャルも見直されています。また、RE100(再エネ電力100%を目指す企業の集まり)の普及など、再エネを使わないとビジネス自体が難しい状況も生まれています。これまで温暖化対策などはコストとして認識されていましたが、近年では収益を創出するビジネス機会であり、うまく対応しないとビジネス機会を失うものへと転換しています。
こうしたなか、現在、先進国だけでなく、途上国においても再生可能エネルギーの導入が拡大しています。その理由として、GHG排出量削減の必要性や再エネのコスト低減といった状況変化だけでなく、災害対策に役立つことが大きいです。例えば、今、パキスタンで急激に太陽光発電が普及しているのですが、その大きな理由の1つは、近年の洪水被害に際し、屋根設置型の太陽光発電設備を導入していた世帯が電力を維持できたことが広く社会に伝わったからです。もちろん、導入コストが下がったことも大きいですが、ある意味では気候変動被害が直接的に気候変動対策を進めたと言えます。

GX-ETS(排出量取引制度)の議論のポイント
GX-ETSの具体的な制度設計において特に争点となるのが「排出枠(排出権)価格の上限・下限の設定」、「化石燃料賦課金と二重課税の論点」、「ベンチマークの設定」、「カーボンリーケージの懸念」などです。
排出権価格の設定
排出枠(排出権)価格の「上限・下限」の設定は、制度設計上の重要なポイントです。市場メカニズムを重視する経済学的な視点からは自由な価格形成が提唱される一方、産業界からは事業計画の予見性や過度な負担を回避するために、価格急騰を抑制する上限設定を求める声があります。また、価格が低迷すると、市場としての機能や炭素制約の強さという意味ではやはり問題となります。
現在、GX-ETSでは、排出枠の上限価格を4,300円/ton-CO₂程度、下限価格を1,700円/ton-CO₂程度とする案が出ています。しかし、世界の多くの統合評価モデル研究は「1.5℃目標を達成するには、2030年前後に1万円/tを超える炭素価格が必要」と指摘しています。排出枠の価格が安すぎると削減への投資が遅れるという懸念もあります。
化石燃料賦課金と二重課税の論点
化石燃料賦課金は2028年度からの導入が予定されています。これはGX-ETSの対象外となる企業のネットゼロに向けた取り組みを補完する仕組みであり、両者を組み合わせた運用が想定されます。
一方で、既存の税制との重複に関する指摘もあります。徴収の効率性を重視し、輸入段階での賦課を支持する意見があるほか、現行の「石油石炭税」や「地球温暖化対策税」との整合性が今後の主な論点となるでしょう。この賦課金が現行税制に単純加算されるかについては、地球温暖化対策税を含めた租税体系全体の見直しのなかで検討される見通しです。
ベンチマークの設定
排出枠の配分方法には、大きく分けて2つのアプローチが存在します。1つは「グランドファザリング方式」と呼ばれる手法です。これは、各企業の過去の排出実績(歴史的排出量)を基準として割当量を決定する方式です。
一方、事業や景気の拡大に伴う生産量の増加などにより、総排出量の削減が困難な業種も存在します。いわゆる素材産業と呼ばれる産業です。そうしたケースでは、エネルギー効率やGHG排出効率を基準とする「ベンチマーク方式」が採用されます。実際に、同じ製品でも、企業や工場によって製品ごとのエネルギー効率、あるいは単位生産量あたりの温室効果ガス排出量は異なります。また、新しい工場は効率が良い一方で、古い工場は効率が悪くなりがちです。そのため、平均値よりは高いものの、企業努力によってある程度は達成可能だと思われるような排出効率を基準(ベンチマーク)として設定して排出枠(排出可能量)を決めるのがベンチマーク方式です。
このアプローチでは、「いかに効率的に生産しているか」という技術水準を評価の軸に据えることによって、エネルギー多消費型産業である鉄鋼や化学などの素材産業に対して、生産増による排出量の増加は認めるものの、効率が低い企業や工場のカーボンニュートラル化を加速させます。

企業を対象とする制度設計において常に争点となるのは、カーボンニュートラルの取り組みが遅れている企業に対する、いわゆる「アメと鞭」のあり方です。エネルギー転換にはリソースや時間が必要なのは確かですが、取り組みが遅れている企業に対してアメが多すぎると、それはそれで早期に取り組んだ企業にとっては不公平となります。
ETSでは、排出枠が貨幣価値を持つことになります。欧州では過去、排出枠の無償割当を受けた電力会社が、無償であるにもかかわらず排出権調達コストを電気代に上乗せし、不当な利益を得た「棚ぼた利益(ウィンドフォール・プロフィット)」の問題が発生しました。こうした問題点を防ぐような「配分方法」や「望ましい価格」を決めるのは、制度設計者にとって非常に難しいタスクです。このため、制度の複雑性が高い排出量取引に対し、仕組みがより簡素な「炭素税」を支持する意見は常に存在します。
カーボンリーケージの懸念
日本国内の炭素コストが貿易相手国と比較して相対的に高い場合、日本からの輸出量が減り、日本企業が海外に生産拠点を移す可能性があります。また、化石燃料の需要が減ることによって国際的に化石燃料価格が下がる可能性もあります。それらの場合、結果として世界全体の排出量が変わらない、あるいは増えてしまう「カーボンリーケージ(炭素漏出)」が懸念されます。
貿易に関わる問題として、製品の製造過程で発生した温室効果ガスの責任所在をめぐる内包排出量(Embedded Emissions)の議論もあります。生産国側は、製品を消費する先進国側に排出責任があり、今の製品輸出にともなう排出量を製品の生産国ではなく消費国の排出量にカウントするべきと主張しています。
現実的には、どの国においても、自国での雇用の維持や鉄鋼をはじめとする素材産業の生産基盤を確保するため、排出量削減が困難な既存設備の削減義務は特別に緩和すべきという意見は根強くあります。実際に欧州でも、前述のように規制に伴うコスト負担が大きく、かつ輸出比率の高い業種を対象に、制度設計の第一段階は、排出枠の無償割当などの緩和策を導入しています。日本においても、企業の国際競争力の維持を目的とした同様の制度設計に関する難しい議論が続くと思われます。
クレジットとJCM(二国間クレジット)
排出量取引を補完する仕組みとして「カーボンクレジット」がありますが、近年はそのクオリティも問われるようになっています。
クレジットの歴史とJCMなどの課題
京都議定書下での「CDM(クリーン開発メカニズム)」は、途上国でのGHG排出削減プロジェクトを経済的に支援することで先進国は排出枠を獲得できるという画期的な仕組みでした。しかし、供給過剰の状態が約10年続き、取引終盤の市場価格は1〜2ユーロ/ton-CO₂程度と低迷しました。
特定のGHG排出削減プロジェクトに対して、経済価値を持つカーボンクレジットを付与する場合に最も重要なのが追加性要件です。この追加性要件は「クレジット付与という追加的な支援がなければ実現しなかった」ことを具体的に示す必要があるというものです。このような条件が必要な理由は、商業的な条件で実施可能な事業にクレジットを供与してしまうと、世界全体の排出量削減には寄与せず、追加性があって質が高いクレジットを市場から駆逐してしまうからです。したがって、この追加性の有無は、カーボンクレジットを発生させるプロジェクトに関しては常に厳しくチェックされます。例えば、航空業界の国際的なカーボン・オフセット制度「CORSIA(国際民間航空のためのカーボン・オフセット及び削減スキーム)」は、この追加性要件を重視してCORSIAに使えるカーボンクレジットの適格性を決めています。
現在、日本は独自のJCM(Joint Crediting Mechanism:二国間クレジット制度)を推進していますが、JCMに限らず、すべてのカーボンクレジットには追加性が必要であることは、クレジットを作る方と買う方の両方が十分に認識する必要があります。
クレジットの「質」が問われる時代
同じくクレジットの質の問題ですが、排出量のアカウンティングやカーボンクレジットに関しては、「技術ベース(エネルギー由来の排出量削減)」と「自然ベース(森林などによる吸収)」の二つを分けて扱うべきだという議論が京都議定書の頃からあります。これは、両者の間で削減・吸収量を算定する際の精度や、その効果の持続性に大きな差があるためです。
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技術ベース:基本的に燃料消費量から削減量が明確に算出できるため、精度が高い。
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自然ベース:森林などの樹種や土壌・自然環境、火災のリスクなどにより、吸収量の把握が難しく、永続性に疑問が残る場合がある。
質が低いクレジットを購入して自社の排出量削減努力を代替する行為はグリーンウォッシュと批判されるリスクを孕んでいます。実際に、自然ベースのクレジットの価格は安いのですが、モニタリング体制の不備など質が問われる場合が少なくありません。どの程度の分量をどのような根拠(クレジットの種類など)に基づいて削減したのかを明確にし、そのプロセスを適切に公表して対外的な信頼を得ることは、企業にとって極めて重要になります。
CCSと1.5℃目標の現実
最後に、技術的な解決策として期待される「CCS(Carbon dioxide Capture and Storage:二酸化炭素回収・貯留)」と、世界的な目標である「1.5℃目標」の厳しい現状に触れます。
CCSの限界とコストの壁
CCSについては、実装に向けたコスト負担の大きさが課題となっています。英国などの先行国においても、支援制度の策定には多大な時間を要しているのが実情です。技術的側面では、CO₂の完全な回収は容易ではなく、回収プロセス自体にエネルギーを消費するという構造的な問題も存在します。化石燃料の継続利用を認める「免罪符」という批判もあります。
企業は、自社内での削減ポテンシャルを精査し、政府補助金なども活用しながらカーボンニュートラルへの取り組みを進めることが、ビジネス戦略としての第一歩になると思います。
1.5℃目標のタイムリミット
<83%の確率で1.5℃目標を達成するためのカーボンバジェット>
出典:Climate Change Tracker「Current Remaining Carbon Budget and Trajectory」
「2050年カーボンニュートラル」という言葉が定着していますが、科学的データに基づいて最新の気候指標(気温目標)と必要な削減量を可視化する「Climate Change Tracker」によれば、83%の確率で1.5℃目標を達成するための炭素予算(カーボンバジェット)は、すでに2025年中にゼロになっています。すなわち、確率83%以上での1.5℃目標達成はすでに不可能となったのが世界の現状です。残念ながら、このことは日本ではあまり知られていません。
では、個々の国の削減目標はどうあるべきかという話ですが、世界全体のバジェットを各国にどう割り振るかについては、1人当たりの排出量や累積排出量をどう考えるかという問題で意見が分かれていました。しかし、昨年の7月、ハーグの国際司法裁判所は、気候変動に関する国家の責任を考える場合、1人当たりの排出量や累積排出量を考慮すべきとする勧告的意見を発表しました。これによって、先進国へのプレッシャーはより強くなっています。
国も企業もカーボンニュートラルはまったなしです。特に企業は、政府や消費者に任せるのではなく、ダイナミックに変化するビジネス環境のもと、自社がどの領域にどのようなリソースをどのように集中して効率的な排出量削減を進めるべきかを、経営戦略の柱の1つとして主体的に決断することが求められています。
三井化学では、「世界を素(もと)から変えていく」というスローガンのもと、バイオマスでカーボンニュートラルを目指す「BePLAYER®」、リサイクルでサーキュラーエコノミーを目指す「RePLAYER®」という取り組みを推進し、リジェネラティブ(再生的)な社会の実現を目指しています。カーボンニュートラルや循環型社会への対応を検討している企業の担当者様は、ぜひお気軽にご相談ください。