取材・執筆:橋爪千花 写真:東里明斗 編集:川谷恭平(CINRA)
「DMS(ジメチルスルフィド)」から探る海洋プラスチックの真実
MOLp:これまで何百もの匂いを抽出してきている上田さんですが、特に印象に残っている匂いや作品があれば教えてください。
上田: どれも試行錯誤の末に生まれた匂いですが、『東京ビエンナーレ2023』の「超分別ゴミ箱プロジェクト 」で制作した『あのプラスチックおいしそう - マイクロプラスチックの匂い -』です。
このプロジェクトに取り組むにあたり、まずプラスチック容器の製造工場を見学しました。一般的にプラスチックの匂いは好ましく思われていませんが、匂いの成分を分析してみると、じつは香水の調香に使われる花の香りの成分と共通する部分がたくさんあったんです。その発見をもとに、いくつかプラスチックの匂いを抽出してみたり、調香してみたりしました。
インスタレーション「あのプラスチックおいしそう - マイクロプラスチックの匂い -」。青い玉は海を表し、白い玉はプラスチックを表現。DMSを人間が嗅ぎやすいように設計することにより、環境問題に問いを投げかけ(写真提供:上田麻希)
MOLp:展示作品では、一種類の匂いを体験するかたちになっていましたが、どのような経緯であの形になったのでしょうか?
上田: 最初は発泡スチロールや、ビニールなど、いろんなプラスチックの匂いを香水瓶に入れ、商品棚のように並べる展示を考えていました。でも、それでは新鮮味がないなと。どうしたものかと悩みながら、海外の研究論文を読み漁るなかで、「海洋プラスチック問題の根源」に迫る研究に出会ったのです。そこに記されていたのが、今回の作品のキーともなる「DMS(dimethyl sulfide / ジメチルスルフィド)」という匂いの成分でした。
MOLp:DMSですか。
上田: DMSは、プランクトンが海中のバクテリアを分解するときに発生する、いわゆる「磯の香り」です。海鳥やウミガメなどの海洋生物は、この匂いを頼りに食べものを探します。ところが、これがプラスチックゴミにも付着するため、彼らはプラスチックをエサと間違えて食べてしまうのです。視覚が弱い生き物にとって、匂いの情報こそが命綱。それ故の落とし穴です。
MOLp:その研究結果を知ったことで、展示内容が明確になったんですね。
上田: はい。DMSは香水にも使われるため、私のアトリエにもすでにあったんです。これを展示し、体験者に海鳥や海洋生物の視点で体験してもらう展示にしようと決めました。
ただ、DMSは沸点37℃と揮発しやすいという問題がありました。たとえば、夏場に気温が35度近くにもなる石垣島では、一滴垂らした瞬間に蒸発してしまい、匂いが残らない。そこでどうやってDMSを長時間留めるかという展示方法の工夫にかなりの時間とエネルギーを費やしました。
最終的に、ジェルビーンズに匂いを付着させ、さらに1分ごとに自動でDMSを1滴垂らし続ける装置をつくりました。シンプルなアイデアだけど、調整が難しい仕組みでした。でも、プラスチック問題に新しい視点をもたらすなら、この展示しかないなと思いました。
DMSとプラスチックの香り
同情ではなく、哲学を
MOLp:今回の作品を通して、海洋プラスチック問題やプラスチックそのものに対して、意識や印象の変化はありましたか?
上田: 今回の展示は、海洋プラスチック問題において、何が本質的な問題なのかを考えることをテーマとしました。「鳥やカメが海洋プラスチックを食べてしまう」というシチュエーションを再現し、来場者に体験してもらうことで、事実に即した問題の本質を知ってもらうことを目指しました。
これは、プラスチックそのものの良し悪しを問うのではなく、問題を解決するためには、その問題の本質を哲学的に考察する必要があると伝えたかったのです。「知らないことが多すぎる、ということを知る」という体験が大事なのです。
MOLp:なるほど。海洋プラスチック問題は石垣島で暮らす上田さんにとってはとても身近な課題だったのではないでしょうか。
上田: そうですね。でも、『東京ビエンナーレ』での展示がなければ、この問題を深掘りすることはなかったかもしれません。「海洋プラスチック問題で生き物がかわいそうだから、プラスチックは使わない」という意見も耳にしますが、これはマスメディアの発信によって生まれた、同情に基づく極端な考え方なのではと感じていました。
この作品を通じてDMSという要素が問題の本質であることを知ったいま、匂いが原因であるならば、匂いによって解決策を探るなど、別のアプローチもあるのではないかと思っています。
MOLp:たしかに、プラスチック自体が問題なのではなく、海に流れた瞬間にプランクトンが分解したバクテリアが付着し、磯の匂いを発することで、結果的に海洋プラスチック問題の一因となるのですね。わずかに成分が付着しただけでも匂いとして感じ取られてしまう。だからこそ、海にプラスチックを流出させないことが重要ですね。
上田: 石垣島でも、ビーチに漂着するゴミも深刻な問題となっています。砂浜の上に散乱しているゴミはすでに打ち上げられているため、魚やカメが誤って食べる心配はありませんが、世界中の海から大量のゴミが日々流れ着くのです。
かつてこの島には、ドイツ人のファッションデザイナーのヨーガン・レールが住んでいました。彼は日課として海岸を清掃し、拾った漂着ゴミを使って素晴らしい大規模なインスタレーション作品を制作し、国内各地で展示されています。
また、最近では漂着プラスチックゴミから新たな製品を生み出す、「プレシャスプラスチック」の取り組みも全国的に広がりを見せています。このように、漂着ゴミを素材ととらえて、対話しながら楽しめるような文化が生まれるとすてきだなと感じています。
香りの可能性と嗅覚アートのこれから
MOLp:最後に、嗅覚アーティストとしての今後の展望について聞かせてください。
上田: 私たちが「良い香り」だと感じるお花の匂いは、本来は受粉の手伝いをしてくれるミツバチを引き寄せるための匂いであり、人間をリラックスさせるためのものではありません。つまり、この世界には、人のためにつくられた匂いは存在しないのです。私たちは、自然の香りを借りて楽しんでいるにすぎないのです。
近年、世の中で嗅覚への関心が高まるにつれて、香りを活用したビジネスチャンスも増えています。しかし、それに伴い、消費者が無意識のうちに操作されてしまうような商品や体験も増えるでしょう。私にできることは、その「操作されているかもしれない」という認識を、嗅覚をテーマにした作品を通じて伝えていくことだと考えています。
展示作品を考えるときは、与えられたテーマから発想を得ることが多いのですが、じつは、自分が今後抽出したい香りや、作品のアイデアを書き連ねたネタ帳を持っています。アイデアは増えたり減ったりを繰り返していますが、今後も自分のペースで1つずつ実現していきたいなと思います。
MOLp:とても楽しみです。
上田: ありがとうございます。また、教育の面でも、嗅覚はもっと広がるべきだと考えています。実際に、嗅覚を学びたいと問い合わせてくれる学生も増えてきています。国内でも美術大学などに嗅覚の専攻が設置される日が来ることを期待していますし、その際はぜひ携わりたいと夢見ています。
1974年東京都生まれ。慶応義塾大学大学院政策メディア研究科修了。2000年、文化庁芸術家在外研修(オランダ)。2008年、世界初と称される匂いのみで構成された展覧会『If there ever was』(レグ・ヴァーディ・ギャラリー/イギリス)に参加。2015年、『The Smell of War』(ドゥ・ロヴィ城/ベルギー)に出品した『戦争の果汁 -広島・長崎-』で第3回「アート・アンド・オルファクション・アワード」(2016)のファイナリストに初選出、その後、第5回〜第9回まで毎回ファイナリストに選ばれ、第8回(2022)に大賞受賞。現在は石垣島に研究所・アトリエを置き、作品制作を行いながら嗅覚教育にも取り組んでいる。